ひよこ物語
『母の芳子も祖母のハツヨも教育熱心だった。母には小学校時代、教科書を全部覚えるように言われ、試験で満点を取れないと怒られた。母は勤めに出ていたので家事は主に祖母がしていた。2人とも「皆勤賞もらわなあかん」と言い、遅刻や早退は認めても欠席はさせてくれない。風邪をひいた時、祖母に背負われて学校に行ったこともある。
小学校の同級生に開業医の子どもがいて、母は多くの絵本があるその子の家から絵本を借り、ザラ紙ノートに絵や文章を写した手作り絵本を作って私や弟に読み聞かせをしてくれた。裏に昭和23年5月と記されたその絵本「ひよこ物語」は、母を探すひよこが様々な生き物に出会いながら旅をし、最後に母と巡り合うあらすじだ。
色鉛筆でサルやイヌ、連雀などの動物や昆虫が描かれている。文章はペンで書かれている。全部で111ページもある。絵は丁寧で上手。文字も美しい。今見て驚くのは、絵にも字にも下書きや修正の跡が見当たらないことだ。母は絵を描くのはうまかったが、長時間集中して絵本をつくるのはたいへんだったと思う。家庭の経済力は全然違うが、母親同士のライバル心であったのかもしれない。
自然観察や絵日記をきれいに仕上げる宿題もきちんとやらされた。「川がにをとりました」「ブドウをみました」「ヘチマの花をみました」「コオロギをとりました」などという文に、必死で描いたと思える正確な絵が付いている。「真面目にやるのが大事」「手抜きをしたらあかん」とずっと言われ続けた。
母は教育熱心なだけでなく自分も勉強をしたがった。休日に友達が家に来て試験勉強をする際、一緒に教科書を読んだり、私たちが読むのを横で聞いたりしていた。それは中学2年くらいまで続いた。
母は4人姉妹の3女。4人とも小学校では勉強ができ、その頃は裕福だったのに、祖父鶴吉の方針で高等女学校へは行かせてもらえなかったという。人一倍負けず嫌いの母の悔しさはかなり強かったようだ。ずっと後になっても、妻の倫子に「勉強したかったのにさせてもらえなかった」と恨み言や愚痴をよくこぼしていたという。悔しさをバネにした教育への熱意が私と弟に向けられたと思う。
「ひよこ物語」には不思議な磁力があるようだ。京都大総長時代、京都に来られた両陛下に研究成果をお話しする機会を2回いただいた。最初の時は宇宙太陽光発電について話した。2回目の時は別の先生が主に話すので私は「ひよこ物語」を持っていった。絵本に造詣の深い美智子さまを意識し、堅い話の合間に見ていただこうと思ったのだ。
美智子さまは手に取り、じっとご覧になっていた。ページを繰られ、すべてのページを見られたと思う。その後、園遊会に招かれた際、「お母様の絵本、よかったですね」と声をかけていただいた。感激で胸がいっぱいになった。
自宅には母がずっと保管し続けてくれた小さい時の絵日記や図画工作の作品もある。ひよこ物語と併せ、私の大切な宝物だ。子ども時代は貧しかったが、厳しくも愛情を持って接してくれる家族らに囲まれ、幸せな暮らしをしていたと思う。妻はそんな私たち兄弟のことを「貧乏人のぼんぼん」と呼んでいる。』
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2016年4月15日 miekotaro | 個別ページ